ばんじさいおーがうまさ!

いろいろあるけどさ、まあなんとかなるっしょ!! なんとかしよーぜ!!

いつか、そうなる?

ふとしたコトがキッカケで、思い出す。

 「あんなコト言われたっけなあー」

 「こんなふうにも、言われたっけなあ」

執念深いヤツだなと、思わなくもないけれど、

次々に思い出す、過去の台詞たち。

まだ赤ちゃんだった我が子と、

悶々としていた日々。

一生忘れてなんかやらない。

数々の、夫の暴言について、わたしはそう思って生きてきた。

きっと彼はもう覚えてもいないだろうし、

そもそも、それをわたしが「暴言」と思っているだなんて、

想像したコトもないだろうと思う。

でも、わたしにとっては、そうなのだ。

ちょっと前に、新聞の投書で、どこかの奥さんが、

 「若い頃はいろいろあったけれど、年老いて二人になって、

先日主人が『宝はおまえだよ』と、初めて言ってくれたので、

それだけで全部もういいと思えました」

みたいなコトを書いてらした。

そうなのかも知れない。

でも、わたしは、今のわたしには、それこそが恐怖だ。

怒りを持続させるコトは難しい。

(ヒトとヒトだけでなく、国と国だってそうなんだと思う。)

そうでなくっちゃ、恨み辛みがつのって膿んで、

 「許す」なんてコトバはなくなってしまう。

今ですら、もう時々しか思い出せない。

あのときの、あの絶望的な感情は、戻ってこない。

許す、許さないの次元じゃない。

忘れてしまうのだ。

なんとなく、どうでもよくなっていくのだ。

そして、いつかある日、ふと優しくされて(されるかな?)、

 「ああ、このヒトと結婚して良かったわ」

なんて思うのかも知れない。

それでいいのか?

それでいいじゃん。

じゃあ、あなたはどうしたいの?

蒸し返して、土下座でもしてもらえば気が済むの?

違います。

うまく言えないけど、あのとき、わたしの中で出した結論みたいなモノがあって、

わたしは、それと共存して生きていきたいだけなのだ。

なけなしのプライド、つまり「わたし」を守るために、

わたしが自分に言い聞かせたコトバを、忘れたくないだけなのだ。

そうして、それこそが、わたしの原動力だったのに。

どうでもいいなんて思ったら、わたしはもう動けなくなってしまわないか?

歌えなくなってしまわないか?

だから、確かめるように、

わたしはわたしの傷跡を、指でときどきなぞる。

子どもの成長と共に、

その傷は、だんだんと薄れている。

わたしは、いま、わたしを見失いそうだ。